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創業100周年

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本年10月1日東京加工紙は創業100周年を迎えました。

これも偏に皆さま方のお力添えの賜であると深く感謝申し上げます。


100周年を記念し、創業者である吉原臣郷についてお話ししたいと思います。


syodai_omisato.jpg創業者 吉原臣郷(よしはらおみさと)


明治11年 1878年 平井臣(おみ)親(さと)の次男として、東京牛込に生まれました。

幼い頃から絵を描くことが好きで、東京根岸に引っ越した時、たまたま隣りに日本絵画の巨匠、浅井忠が住んでおり、14歳頃からこの浅井忠に師事するとともに、石版画、今でいうリトグラフも研究するよう浅井にすすめられ、石版画家の岡村政子の門下生としても学んでいました。その頃学んだ絵画の腕を活かした作品は今、当社定番のカレンダーの原画として、毎年活用されております。

明治26年 1893年 母方の実家 吉原彦太郎の養子となり、絵画、石版画とともに外国人経営の英語教室に通い英会話の勉強にも励みました。それが故、次第にアメリカへ行くことへの憧れを抱きはじめ、石版画家関係の人のつてを頼り、明治34年 単身渡米することとなります。その時、家族には「一寸所用で横浜まで行って来ます」の一言だけを残し、黙って渡米したとのことです。

渡米後はオットマン印刷会社に入社し、石版画を基礎として、印刷技術、印刷用インキについて研究を重ねました。

明治40年 1907年 帰国後、当時、凸版印刷と並び称された東洋印刷へ入社し、工場長として敏腕を振っていたらしいです。が、時の印刷産業の隆盛に伴う印刷インキ需要の増大、印刷の良し悪しはインキによるところが大であるという信念で、アメリカ時代培った技術を活かし、明治43年 二葉屋商店を京橋宗十郎町 現在の銀座 資生堂本店の右隣に興じました。販売先は勤めていた東洋印刷をはじめ、凸版印刷、秀英社 現在の大日本印刷に納入していました。その頃、技術力、営業力を評価され、凸版印刷に入社の打診があったようですが事業に専念するため、断わったとのことです。そうした中、大正12年9月1日の関東大震災で、会社の一切は灰になり、二葉屋商店は整理することとなりましたが、整理、間もない同年の大正12年 1923年10月 大和(やまと)商店を立ち上げます。これが今の東京加工紙です。

honsyakoujou_1939.png
昭和14年/1939年頃の写真

nouzei_1942.png昭和17年度(1942年)分の納税に関する書類
*後の内閣総理大臣 宮澤喜一の名前も…

印刷インキを製造する中、紙の占める重要性にもかんがみていた為、以前より研究をしていた防湿紙、いわゆるロー引き紙の製造に取り掛かります。

当時、食料品、医療品、嗜好品などの包材はフィルムがない時代でありました。セロハンが輸入されたのは、それから10年くらいの後の昭和初期であり、プラスチックフィルムに至っては、戦後1951年にポリエチレンフィルムが初めて輸入されました。

1900年あたりから海外製ロー引き紙が輸入し始められ、食品などの包装紙として使用される中、大正8年 1919年 国内でロー引き紙ストローが発案され、国産製造が伸び始めたロー引き紙に大変強い興味を持っていた為、直ぐに製造を開始します。苦心の末、ロー引き紙製造を軌道にのせ、創業のわずか2年後にはたばこ用木箱の中敷としての平判ろう紙を納入し始めました。

1927年には大蔵省専売局 今のJT(日本たばこ産業(株))の指定工場となり、同年には明治製菓をはじめとした製菓会社、石鹸会社へロー引き紙を納入しました。

meisai_1944.png昭和19年(1944年)大蔵省 専売局への納品数量明細
*当時の中井商店(現 日本紙パルプ商事㈱)経由にて



この様に、俊敏な行動力と好奇心旺盛な性格を活かし、紆余曲折ありながら、東京加工紙の礎を作った初代社長ですが、座右の銘は「信用」であったとのことです。
人を信用し、且つ人から信用されることを信条としていたそうです。いかなる苦境も耐え抜き、創業し、事業成功した原動力こそ「信用」ではないかと考えます。

我々社員も初代社長の意思を受け継ぎ、社員同士互いに「信用」し合い、お客様から常に「信用」される会社となるよう、日々励んで参りますので、今後も皆さま方のご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

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